気になる!あれこれ・・・・・

いろんな場面でちょっとした工夫や楽しかったことなど書いていきます。

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太平洋戦争中の私の幼い戦争体験!家の工夫や貧しい暮らしについて!

      2019/01/17


昭和20年(1945年)8月15日終戦になったその日、私は8才に なったばかりでした。
この太平洋戦争が始まったのは昭和16年(1941年)12月7日と言われますから物心ついた時から戦争真っ只中だったということになります。

私は幸いにも住んでいたのが田舎なので戦争の本当の怖さは知りません。
でも、小さい頃の記憶は毎日が恐怖の中での貧しい暮らしです。

戦争はやはりとてもとても悲惨なものです。
決して人々に幸せはもたらしません。
これだけは断言できます。

この戦争3年8か月の間に民間人と軍人合わせて約310万人の命が失われたということです。
(軍人 約230万人 市民ら 約80万人)

今八十歳を迎えて、本当の戦争の悲惨さを知らないまでも田舎の片隅でもこれだけの事実があったことを記しておきたいと思います。
記憶は切れ切れです。
その切れ切れの記憶ながらもその時々の経験を思い出しています。
思い出すままに一つ一つの事実を書いてみます。

灯火管制中の夜の家

戦争が激しくなって、 1938年には 「燈火管制規則」施行されました。
私の家は貧しくて小さな平屋建てでした。

家族がいつもいる居間は道路に面した部屋で、大きな窓がありました。
透明ガラスで雨戸などもありません。

燈火管制が敷かれているので、夜は明かりが外に漏れないように工夫をしなければなりません。

我が家は大きな分厚いボール紙に 紐をつけて、それを窓に吊るしていました。
窓という窓にそのボール紙を吊るし、たった一つだけ天井から吊るした裸電球には 覆いがしてありました。

その直径1メートルほどの明かりの下で家族みんなで寄り添って暮らしていました
冬はその電球の下にある小さな、本当に小さな囲炉裏に炭火を起こして暖をとっていました。

本当に家族が息を潜めて寄り添って暗く寒い夜を過ごしていたのです。
1937年生まれのわたしにはそれは当たり前の暮らしだったことになります。

無事に朝を迎えられた!朝は本当にうれしかったものです。

出征兵士の見送り

物心着いたころ、祖母と 何度も出征する村の若者を村のはずれまで見送りにいきました。
今でもそこを通ることがあると、あの日のことを思い出します。

出征する若者が出発する日は、その時見送りに出れる人たちは、みんなで村のはずれまで見送りに行くのです。
村のはずれまで 見送ると、そこで村長さん等の挨拶などがあり、最後に出征するお兄さんが道端の少し高いところに立ち、みんなでバンザイをして見送りました。
小さいながらもそのお兄さん、家族の気持ちを思い、見送った後家路に向かうときはとても気が重かったものです。

それは何度もありました。

ここで当時の戦争について調べます。

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、独: Zweiter Weltkrieg、英: World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本と米英との開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。

 ウィキペディアより

絵本作家の加古里子(かこさとし)さん(2018年に92歳で亡くなられました)も、小学校卒業時の作文を元に出版された「過去6年間を顧みて」と題する書籍の中でこう振り返っておられます。

兵隊さんの出征の連絡が来ると仲間と駅に集まって「万歳!」とやった。
見送る人は騒いでいるのに、兵隊さんは「しょぼん」として手を振ることもない。
貨車に乗った軍馬までが「しょぼん」としていた。

それを見た仲間たちは駅からの帰り道、みな黙りこくってしまった。

と記されています。

加古里子さんの言われる駅への見送り風景は、満州事変や上海事変が激しかったころ、福井県鯖江にあった連隊の兵隊さんが戦地に向かう姿を言われているようです。

戦争中のいろいろな出来事について

心をこめて千人針を

また、家でもよく千人針を刺しました
出征が決まるとその人のために白い布に赤い糸で結びこぶをさすのです。
千人針は何度も回ってきました。
また、出征する人があるのだな。
出征する兵隊さんが無事なように心をこめて刺すのだと思い、小さな手で一生懸命に刺しました。
でも、今思い出しても幼いながらも、こころがとても重かった気がします。

歴史的には日露戦争の頃から、同様の千個の結び目を作った布を弾丸避けのお守りとし、出陣する兵士に持たせる祈念が日本各地で行われていた。
この頃には「千人結び」や「千人力」などの名でも呼ばれていた。

その後、千人針は、日中戦争から太平洋戦争にかけて日本全国に普及していった。

 ウィキペディアより

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子供たちの遊び

わたしが物心ついたころ、近所の男の子たちはいつも戦争ごっこをしていました。
わたしの家の前はずっと田んぼが広がっていました。

現在は耕地整理が行われて整然と区画された圃場になっています。
その区画された圃場はけっこうな区画が宅地になりました。
私の家も以前は山裾で1年の3分の1は陽の当らないところだったのですが、1年中陽光の当るところに移転しました。

戦争中の田んぼは、段々であぜ道が縦横に通っていたので、男の子たちの戦争ごっこの格好の場所になっていました。
隠れるところがいたるところにあったからです。

それぞれみんなが、竹の棒を銃替わりにしていました。

男の子たちは、敵、味方に分かれて毎日のように前のたんぼで遊んでいました。

魚の配給される日

たまに 魚が配給される時がありました
ある時留守番をしていると組長さんが
「魚が来たので集まってください」 とふれてきたのです。

家には誰もいないので仕方なく組長さんのところにいったのです。

組長の家の前にはいろんな魚が 無造作に放り出されています..。

鯖なら鯖、鯵なら鯵が 組の人数分とか戸数分あるとかではないんですよ。

鯖やイワシやたこやいろんな種類の魚が 混じってるんです.
それを誰がどの魚をもらうかを決めるのです.。
たぶん抽選だったと思います。

その時私がどんな魚がもらえたのかは覚えていないのですが,一度母がなまこが当たっ てまな板の上においてあったのがとても気持ちが悪くて今もその当時の粗末な台所でのその場面が目に浮かぶのです。

だから今もなまこは食べたことがありません。

お米の配給制度

お米も配給制度でした。
お米の配給制度は終戦後も結構長く続いたのではなかったでしょうか。
(米については1982年(昭和57年)まで配給制が行われていたようです。)

お米の配給は満足な量ではなかったので、ご飯にはいろんなものを混ぜ込んでありました

麦はもちろん、さつまいもの取れる時期はさつまいも、大根葉など その時々あらゆるものを 混ぜ込んであったと思います。

食糧難は終戦後もひどくみんなはさつまいもやカボチャを道路わきなどでつくっていたようです。
私の家は母の実家のそばの河原を耕してさつまいもを作っていました。

当時は代用食と呼ばれていました。

今も忘れられない究極のまずいごはんは母が裏の山から取ってきた木の葉っぱを入れたご飯のことです。

噛んでもやたらシバシバして固くて、味も無くて、やっと飲み込んだものです。

また、終戦後もお米は不足していて、配給も満足ではなかったので、長い間お粥を食べていました

学校給食も無くて、家にはご飯もろくに無くてお粥ではお弁当も持てないので、中学校卒業までお昼は家に食べに帰っていました。

終戦後ですが、学校で時々本当にたまに脱脂粉乳のミルクの給食があったのを覚えています。

海岸で塩を作った日のこと

私の家は海から約5km離れています。

ある日両親に連れられて海岸に塩を作りに行ったことがありました。
リヤカーに裏山で拾った枯れ木や落ち葉をいっぱい積んで曳いて歩いていきました。

海岸に着くと砂浜で火を焚いて、鍋に海水を入れて煮詰めるのです。

海水を煮詰めて作る塩はそんなに量は出来なかったと思います。
海水を鍋に入れて、ひたすら火を焚いて煮詰めるのです。

朝から家を出て夕方までひたすら海水を煮詰めていたと思います。

小さかったので、どれくらいの塩が出来たのか?いっさい記憶してはいません。

今、調べてみると、やはり塩は不足していたようですね。

日本では天日だけでは塩は作れません。
そこでやはり製塩には燃料が必要です。
でも、まず軍艦、飛行機に燃料がつかわれます。

だから燃料不足、人出不足で塩を作ることができなくなったのです。

そのうえ昭和20年に入ると関西の塩田は敵機の格好な目標になって塩を作っている状況ではなかったようですね。

生きていくためには、塩から自分でつくらなくてはいけなかった時代です
母たちは本当に苦労したと思います。

大阪から学童疎開していた子供達

私の家の近くにお寺があるのですが、そのお寺には都会から学童疎開をしている子供たちがいました。

私の記憶では、大阪のひとつの学校の子供達だったと思います。
私の家は山の裾の高台にあり、その先200 m くらいの田んぼの向こうの石垣の上にそのお寺はあります。

毎日朝になると子供達がその石垣の一番端に整列して、広がる田んぼのはるか向こう東方向に向かって大きな声で挨拶をしていました。

「お父さんお母さんおはようございます。」

私と同じような年齢の子どもたちが親元を離れて学校ぐるみで疎開をしていたのだと思い、とても可哀そうでした。

今思うのですが、あの子どもたちは、もしかしたら敗戦後故郷に帰った時親を亡くした子もいたのではないでしょうか?

注)学童疎開は昭和19年から始まったということです。

日本各地は度重なる空襲に見舞われて特に東京、横浜、大阪、名古屋、神戸などの大都市への空襲が激しくなっていきました。
昭和19年「1944年」6月政府は国民学校初等科に通う児童を空襲のおそれのない地方の農村部へ移住させることを決定しました。
全国で40万~60万人の子供たちが集団疎開をしたそうです。

空襲警報のあった翌朝のある日

私の住む田舎でも、毎日のように空襲警報が発令されるようになったあの日の夜のことです。
その頃は、いつ空襲警報が発令されるかわからないのでいつも枕元に、 畳んだ服や大切な持ち物を入れた鞄を置いて寝るのです。

空襲警報が夜中に発令されたある日の朝、学校に行って、 ふと気がつくとズボンを裏向けにはいていることに気づきました。

恥ずかしくて恥ずかしくて、でもその時どうしたのかは覚えていません。
でもとにかく気付いた時の恥ずかしさを今も忘れられないのです。

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授業中の警戒警報

戦争は1年生と2年生の一学期までです。

日に日に戦争が激しくなっていた2年生の時だったと思います。

私たちの田舎にも毎日のように警戒警報、空襲警報が発令されるようになっていました
警戒警報はサイレンが1回、空襲警報はサイレンが短く10回繰り返し鳴り響くのです。

学校の屋根に取り付けられたサイレンが毎日のように警戒警報や 空襲警報の発令を知らせて響き渡りました。

授業中にもサイレンが鳴り響く日が多くなりました。

サイレンが鳴ると、急いでランドセルに教科書などを詰め、母が縫ってくれた 防空頭巾をかぶり、 窓を閉め、校庭を走り抜け、前のお宮様の森に逃げるのです。

お宮様は若狭一の宮です。
お宮様の森は千年杉などが生い茂り、木々の間から空がところどころ見えるような森です。
裏は山になっていて、その山のすそにお宮様の森はあります。

その森の決められた場所に整列すると、いつもクラスの人数を数えて

「本日の出席〇〇名中、〇〇名異常ありません!」
と先生に報告していたことを今も覚えています。

そこでは身を潜めて空襲警報が解除になるのをじっと待ちました。

宮様の森の木々の隙間から B 29 が飛んでいくのを見たこともありました。

B29とは?
B-29は、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機[2]。 愛称はスーパーフォートレス(Superfortress)。戦時中の日本では「超空の要塞」という呼称もあった。

  ウィキペディアより

不思議なのですが、記憶はお宮様の森に逃げたことまでで、空襲警報が解除になった後のことは一切記憶にありません。

その後学校に帰ったのか?家に帰ったのか?
学校に帰ったのならその後どうしたのか?

一切記憶にはないのです。

農繁期の教室

戦争末期の頃か終戦後まもなくだと思いますが,私たちの国民学校には教室に妹や弟を連れて来て、おんぶをしたり子守をしながらの友達もいました。

私は一人っ子だったので、少し複雑な気持ちでその様子を見ていました。

農繁期になると農家の友達は家の田んぼを手伝うために学校が休みになり、私たち非農家の子供達は学校でいろんな作業をしたものです。
その頃蚕も飼っていました。
その蚕の 餌になる桑の葉っぱを非農家の友達と取りに行ったりしました。

昭和20年4月の新学期のこと

昭和20年4月私は国民学校2年生になりました。
新学期初めての日です。

席 が決まり、私は東京から疎開をしてきている友達と並ぶことになりました

そうして席に着いた私たちに新しい2年生の教科書が配られました。

教科書は前年の2年生が使用した古い教科書でした。

私の席に配られたのは、丁寧に使われた綺麗な教科書でした。
となりの席、東京から 疎開してきた友達に配られた教科書は 表紙から5~6ページも破れて無くなった、とても乱暴に使われた教科書です。

するとその東京から疎開をしてきている友達が、即私に配られたきれいな教科書と取り替えたのです。

私は何も言えませんでした。

その古い教科書を使ったのは昭和20年のその年だけで、翌年の21年(3年生)には新しく作られた教科書になりました 。

でも、 その新しい教科書は粗悪なわら半紙に印刷された文字だけの 愛想のないものです。
挿絵など一枚も入っていません。

わら半紙に印刷して重ね真ん中をホッチキスで留めただけのものだったと記憶しています。

そんな愛想のない教科書でしたが 、新しい教科書がもらえたことがとても嬉しかったのを覚えています。

母の帯で作った鞄と炒った大豆

戦争が激しくなった頃、母は私に自分の帯をほどいて作った鞄を持たせてくれました。

「もしも母ちゃんとはぐれることがあったらこれを食べているんだよ」と言われていました。

オレンジ色に茶色い縞模様の母の帯を解いて縫ったもので、肩から提げるものでした。

そのカバンの中にはブリキの細長い缶が ありました。
缶の中には、 炒った大豆が入っていました。

「これはもしも母とはぐれた時、一人になった時に食べて 命をつなぐためのもの
今食べてはいけない!!!」

そう思いなら 、時々一粒、ふたつぶと 食べてしまうのです。
その時の葛藤は今も忘れることができません。

今も目に焼きついている真っ赤な夜空

ある夜のことです。
今も目に焼きついている東の空。
真っ赤な夜空のことです。

なんでも敦賀が爆撃を受けているということでした。
敦賀は昭和20年(1945年)7月12日が1回目で計3回爆撃を受けているそうです。

私の家からは50キロ近く離れているにもかかわらず、その夜見た東の空は空高くまで真っ赤に見えました。

敦賀は、空襲を受けた都市の中では最小規模だったが、軍需工場の存在や港湾拠点という理由で3回空襲を受けている。
特に第一空襲が日本海側の港町にも関わらず、大編隊で襲撃する等きわめて激しかった。
『敦賀空襲・戦災誌』によれば、一連の交戦で高射砲隊の指揮を執っていた日本軍守備隊隊長1名が直撃弾を受け戦死、市民が火に捲かれ109名が死亡、市街地の80パーセント以上を消失・焦土と化するなど戦闘・空襲により甚大な被害が出た。

ウィキペディアによる

もぎ取ったように撤去された橋の欄干

戦争が激しくなったころ、近くの川の橋の欄干の鉄がすべて乱暴にもぎとられていました

そこかしこの橋の鉄はすべてもぎとられていきました。
家でも、母が鉄釜や鉄製品は供出という名のもとに提出していました。

私は小さいながらも、こんなものまでもぎとって戦争のために使用しなければならないようになっている事実にとても不安をかんじていたものです。

今調べてみると、金属の供出は昭和13年から始まっていたようですね。

昭和18年9月には全ての役所と国民学校・中学校の暖房器機、家庭の鍋釜・箪笥の取手・蚊張 の釣手・店の看板・仏具・窓格子なども回収されたそうですね。

地方鉄道のレールも対象となり、複線の鉄道路線はレールが撤去されて単線となったとのことです。

このころには本当に日本は厳しい状況だったのですね。

蛋白源だった蚕のさなぎ

母は製糸工場で働いていました。
朝早くから出て夜は真っ暗にならないと帰ってきませんでした。
家から4キロほどもある工場へ歩いて通っていたのです。

ある時から母は製糸工場で生糸を取った後の 蚕のさなぎを持って帰ってくるようになりました

繭の糸を取った後の蚕のさなぎは茶色くて形もすごくグロテスクです。
虫ですからね。
家族みんなでそのグロテスクなさなぎを食べるのです。

いった豆を食べている感じでした。

でも、私はどうしてもそのさなぎが食べれませんでした。
そんな大変な食糧難時代でも私には食べれないものが結構あった気がします。

今調べてみると、蚕のさなぎは大変優秀なタンパク源だったようですね。

登校前のいなご採り

国民学校に入学して、稲が実る頃になりました。
すると、朝登校前にイナゴ取りをしなければなりませんでした。

同じ地区の みんなで近くの田んぼに行きました。
それぞれが布で作った袋を持ち、 稲穂の間を歩きながら、 いなごを捕まえるのです。

田んぼの道には小川もあります。
小川に架かる橋はそこここにはないので、小さかった私は上級生に抱っこしてその川を渡してもらっていたのを覚えています。

現在のような耕地整理で整然と区画された圃場ではありません。

いなごも本当にたくさんいました。

背丈ほどの稲穂のなかを歩いていなごをつかまえるのです。
近くの田んぼを一回りすると、イナゴで膨らんだ袋を持って登校しました

学校の校庭の真ん中には、大きなかまにお湯が沸いていました。

それぞれの地区から、みんなが持ち帰った イナゴはその釜でゆがかれます。

そこで湯がかれたイナゴはそれからどうなったのでしょうか?

いま、この疑問を調べてみました。

イナゴは日本では稲を食べる害虫とされると同時に水田から得られる重要なタンパク源
として扱われ、多くの地域で食用とされた。

タンパク質、カルシウム、ビタミンAが豊富とのことです。

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終戦後の暮らしについて

終戦後初めて配給でもらったお菓子

終戦後のある日です。
私にたったひとつのお菓子の配給がありました。
5cm×7cmくらいだったかな?と思います。
そのお菓子はビスケットの片側にチョコレートを塗ったものです。

恐る恐る 一口食べてみると私の口には合いませんでした。
チョコレートなど食べたことがなかったからです。

5歳年上だったお隣のお姉ちゃんはもう配給のお菓子がもらえなかったのでその一口かじったお菓子をあげました。

とても喜んでくれたのを今でも覚えています。

駐留米軍が投げてくれたガム

終戦後のことです。
私達田舎の国道にもアメリカの駐留軍の車が頻繁に通るようになりました。
そして私たちのような子供達が遊んでいると車の中から チューインガム投げてくれるのです。

国道沿いの友達が投げてもらったそのガムを1枚私にくれたことがありました。

そのガムは噛むととても甘くて柔らかくて、生まれて初めて味わう味でした。
だから今も思い出すのです。

今思い出しても、現在日本で当たり前に味わうガムの味と変わらなかったと思います。

今若い人たちに伝えたいこと

2018年9月2日福井新聞「越山若水」にこう書かれています。

8月15日が終戦の日だと知らない若者が増えているという。
とすれば、日本が降伏文書に調印した9月2日は、さらに意識されることが少ないだろう。
戦争の記憶の薄れは平和の証しと言うかもしれない。
けれど、危うい事柄は、人々が関心を寄せなくなったときにこそ忍び寄ってくる。
つくられたにぎやかさの中で、表情を失っていた兵士のことを覚えていたい。

     ここまで。

実は私も降伏文書に調印したという日は知りませんでした。

9月2日の朝この記事を灌漑深く読みました。

おわりに

戦争は本当に誰をも幸せにはしないと思います。
この戦争3年8か月の間に民間人と軍人合わせて300万人の命が失われたということです。

私は幸にも田舎でしたので、直接的な戦争の被害を受けずにすみました。
父も、もう招集を受ける歳ではなかったので戦場に行くことはなかったのですが、勤めていた工場の出張でよく名古屋方面にでかけました。

爆撃を受けたこともあったようです。

終戦間際には徴用という名でどこかへ行くことになり、夕方母と駅まで見送りにいったのを覚えています。

幼いながらも記憶には辛いことばかりが残っています。

毎日を恐怖心で過ごした戦時中でしたが、終戦後のことがポッカリと記憶から抜けてしまっています。

8月15日、外で知らないおじさんが怒っていた言葉で戦争が終わったと悟った時、その時点からなんの記憶も失せてしまっています。

その日母とどうして会ったのか?どんな話をしたのか?

こうして幼少期の記憶は戦争の恐怖と苦しみと貧しさとでしかありません。

戦争はほんとうに誰にも幸せはもたらしません。

再びこの日本に戦争がおこらないように、世界のどこにも争いの無い日々がおとずれますように祈りながら・・・

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