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知覧特攻平和会館を訪ねて!若き特攻兵士の 遺書に涙が溢れました!

      2018/10/21


鹿児島県南九州市知覧町にある知覧特攻平和会館は第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示する施設です。

史実を正しく後世に伝え、世界恒久の平和を願って建てられたと言うことです。

知覧にはかって太平洋戦争末期に陸軍の出撃基地がありました。

昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争の末期の沖縄戦では、特攻という名でとても考えられない作戦を行ったのです。

爆弾を積んだ飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をしたのです。

知覧特攻平和会館にはその陸軍特別攻撃隊員1036名の遺品や関係資料を展示してあります。

5年前に鹿児島に旅行した時に、知覧武家屋敷見学のあと行きました。

そこでは、淡々と語ることなどとても出来ない衝撃を受けました。

なお昭和62年2月に開館した知覧特攻平和会館では現在
企画展「知覧特攻平和会館開館30周年記念展」が開催されています。
平成30年1月31日までです。

知覧特攻平和会館の詳細

住所 鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地

TEL   0993-83-2525

交通機関

  JR鹿児島中央駅東口16番乗場→鹿児島交通バス知覧特攻観音入口行きで1時間20分
  バス停 特攻観音入口下車、徒歩3分
  
   指宿スカイライン知覧ICから10km15分

料金
  入館500円、子供300円(ミュージアム知覧との共通券600円、子供400円)

時間   9~17時(入館は16時30分まで)

休み 年中 無休

駐車場/あり

知覧特攻平和会館に入ってみましょう。

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知覧特攻平和会館について

知覧特攻平和会館は第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関するたくさんの資料を展示する施設です。

日本の最前線と考えられていた沖縄を守るため兵士一人一人の精神力を武器とした特攻戦略がとられたとのことです。

特攻戦略では多くの若者が片道分の燃料と250kgもの爆弾を乗せて敵艦に突っ込むのです。

展示室に入ると展示棚と壁面にはたくさんの遺品、遺書、など資料がたくさん展示されています。

撮影禁止なので内部の写真は撮ることはできません。

ですが、まず、目に映った光景はとても写真など撮ろうとは思えない衝撃的なものです。

先に入った人たちも、みんな立ち止まってガラス張りの中に目を凝らしているようでした。

壁面には、特攻隊員として大空に消えた若者たち一人ひとりの遺影と名前が記載されています。
展示棚には若者たちが、出撃前に書いた手紙などが並べられています。
出撃 戦死した 月日の順に掲示されているそうです。

命をかけて国のために明日飛び立つ若者の健気な心情を 思うと本当に涙が止まりませんでした。
しかも、特攻隊員は17,18才の今の高校1,2年生にあたる若者が多かった事を知り、衝撃を受けました。

今、知覧特攻平和会館や鹿屋航空基地史料館(同県鹿屋市)など、特攻隊ゆかりの所にたくさんの方が訪れているようです。

特攻隊員と零式艦上戦闘機(零戦)を取り上げた百田尚樹氏原作の映画「永遠の0(ゼロ)」が700万人の観客動員を記録し、特攻隊員への関心が改めて高まっているからだといわれています。

今平和を満喫できている私たちは、過去にこんな事実があったことを心に刻み、再びこんなことがないようにするべきだと心から思います。

動画をお借りしました。

展示棚には千人針もありました。

千人針とは出征する人が無事なように家族や近隣の人たちも、心を込めて白い木綿の布に、赤い糸で結びこぶを作るのですが、 私も小さな手で一生懸命刺したことを覚えています。

それから知覧特攻平和会館には、世界に一機だけ現存するという陸軍四式戦闘機・疾風「はやて」が展示されています。

また、特攻平和会館では、語り部が、戦争の空しさ・平和の大切さ・命の尊さ・家族の絆など考えてほしいと訴えています。

また、館内では音声ガイド案内機を借りることも出来るようです。(有料)

ここに収められる特攻隊員一人一人の遺影などは、生存者板津忠正さん(初代館長)が全国を回って 集められたものだそうですね。

板津さんは特攻隊として出撃されましたが途中エンジントラブルにより不時着し、その後も2回の出撃は雨のため中止となり4回目の出撃は8月15日と決まって、出撃することなく終戦になったそうです。

特攻隊員が生き残ったことの精神の呵責にとても苦しまれたようです。

その後昭和48年頃から、特攻隊員たちの遺族をまわられ 遺影や遺品をあつめられたそうですね。

こうして知覧特攻平和会館に展示されることになったのです。
なお、板津さんは2015年4月6日に80才で永眠されたそうです。
どうぞ安らかに・・・

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特攻隊員が最後に過ごした三角兵舎

出撃の決まった特攻兵士たちは空襲を避けるため飛行場から少し離れた松林の中に作られた三角兵舎で、出撃までを過ごしたそうです。

半地下式木造バラック建てで、屋根には擬装用の幼木を乗せていたそうです。

現在、その跡地には三角兵舎跡の石碑がたてられています。

そして現在は特攻平和会館の隣に復元された三角兵舎があり、当時をしのぶことが出来ます。

復元された三角兵舎には次のような説明が書かれています。

三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。
敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕を作り、屋根には杉の幼木を被せ偽装してありました。
 各地から集まった隊員は、二~三日後には雲のかなた沖縄の空に散華されました。
出撃の前夜は、この三角兵舎で走行会が催され、酒を酌み交わしながら隊歌をうたい、
薄暗い裸電球の下で遺書を書き、またお別れの手紙などをしたためて 、出撃して征ったのです。
ここに三角兵舎を復元し、当時を偲ぶよすがとするものであります。

ここで、まもなく出撃が決まった若者が、家族や知人に辞世の句や手紙を書いたのかとその時のことを思い、しばし眺めているばかりでした。

出撃の前に隊員がしたためた手紙を集めた動画をお借りしました。

また、明日出撃が決まったであろう 空を仰ぐ隊員と 母の銅像がたっています。

それから特攻の母と呼ばれた近くの食堂の鳥浜トメさんは、特攻作戦が始まると、知覧から出撃する特攻機の見送りを続け、隊員が憲兵の検閲を避けるためにトメに託した手紙を代理で投函したほか、個々の隊員の出撃の様子を自ら綴った手紙を全国の家族のもとへと送り続けた方だそうです。

このことを知って、特攻の母と呼ばれたトメさんに感動しました。

ふだんはよく写真を撮る私がこの時たった1枚撮った写真です。

見学を終え、観光バスの待つところまでの道を主人と黙って歩きました。

まとめ

知覧特攻平和会館は鹿児島県南九州市知覧町にあります。

第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示する施設です。

陸軍特別攻撃隊員1036名の遺品や関係資料を展示しています。

史実を正しく後世に伝え、世界恒久の平和を願って建てられたと言うことです。
展示棚と壁面にはたくさんの遺品、遺書、など資料がたくさん展示されています。

ここに収められる特攻隊員一人一人の遺影などは、生存者板津忠正さん(初代館長)が30年にわたって全国を回って 集められたものだそうですね。

市役所に勤めながら、全国の遺族に出したはがきは数万通だそうです。
返事があれば遺族の元を訪れて、遺品や遺書を預かられたのです。

 「生き延びたという負い目は死ぬまで消せません」。
そんな思いを抱えながらの活動だったという事です。

こうした思いで作られた知覧特攻平和会館の展示物を見るにつけ、今改めて
こうした犠牲のもとにあるこの平和を大切にしたいとの思いを強くしました。

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 - 昭和の思い出

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